とっぷ 上 杉 落無話 教 室 操 料




瞑想のようなもの



人は、なぜ瞑想するのか

それは、一言で言い表すことは難しいようです。ただし、自己の内面を観察するには、とても良い手段だと思います。
仏教の世界では、苦しみから逃れる唯一の手段であるから、とも考えられているようです。少なくとも、ブッダはそう信じていたのではないでしょうか。だからこそ、ブッダの弟子たちも瞑想に励み、二千年以上経った今日でも、瞑想は続けられているのでしょう。だとしても、瞑想は一部の悟りを開きたいと願う者たちのためにあるわけではありません。ましてや、賢者だけが行う修行でもありません。誰でも、どこでも、行うことのできる、清浄な行為なのです。そうはいっても、瞑想と聞いただけで、難しく考えてしまったり、胡散臭そうに身構える方がいるのも事実です。それは、なにやら足を踏み入れてはならない、宗教的な臭いがプンプンと漂っているからなのでしょう。確かに、私もブッダの名前を出しましたし、二千年以上の歴史を持つともなると、背中がむず痒くなる人がいても不思議ではありません。でも、それは集団で行ったり、儀式的に行われたりすれば、そうともいえるかもしれませんが、一人でリラックスするのであれば、気にもならないことなのではないでしょうか。なにも、瞑想によって悟りを開く必要などないのです。呼吸が楽になったり、少しでも自身の体のことを感じることができれば、価値があるのではないでしょうか。たとえ、そうでなくとも、深い呼吸と心の癒しに繋がれば十分だと思います。実際、瞑想によって心が穏やかになったという声を聞きますし、体調までもが良くなったという方もいらっしゃいます。瞑想を始めるきっかけは人それぞれですが、難しがらずに、取り敢えず瞼を閉じてみると、なにかが変わるかもしれません。一度、試してみませんか。


世の中に、瞑想法は数々ありますが

私が行っている瞑想法と、世の中に出回っているいくつかの方法の中から、簡単なものをここに記しておきますので、興味のある方は、軽い気持ちで、やってみてください。上手くいかないからといって、苦情は受け付けられませんが、相談くらいにならのれると思います。そんなときは、一声かけてください。

皆さんが瞑想と聞いてはじめに思い出すのは、床に座って脚を組み、手を膝の上に置き、瞼を閉じる。といった感じでしょうか。というのも、たまに話しているとそのようにイメージしている方が多いようなんです。座禅が与えるイメージがとても強く、混同しているようです。それが災いしてなのか、難しいイメージができあがってしまっているようなのです。
確かに似ていますし、ある意味では同じようにとらえることもできるかもしれません。座禅にしてもそうなのですが、瞑想はそれほど肩肘張ったものではありません。座禅はお寺で行うものと決めつけている方もいらっしゃるようです。テレビなどで見ているイメージが強いのでしょうね。
瞑想(座禅もそうなのですが)は、どこででもできます。瞑想は、坐っていなくてもできるいくらいです。立っていても、横になっていてもできるのです。歩きながらでもできますし、なにかをしながらでもできます。例えば、釣りをしながらとか、お風呂に入りながらなんていうこともできます。とにかく、ゆっくりとした深い呼吸さえできれば、瞑想の準備はできたと考えても良いと思います。


瞑想の終着点があるとすれば

ブッダのような悟りの境地なのかもしれませんが、誰もが、その場に立てるものではありませんし、立とうと思う方も少ないことでしょう。ここでいうところの瞑想は、物事をあるがままにみるということです。それは自分をみつめることです。自身の内面を観察することで、自己を見つめ直していくことです。

瞑想は、精神を集中するために自身の呼吸に意識を集め、観察することから始めることが第一歩だと考えています。瞑想は無になることだと思っている方がおられますが、よほどの解脱者でもない限り、無の世界に入ることはできませんし、その必要もありません。瞑想とは、ストレスを浄化し、内観することだと、私は考えています。



では、呼吸を整えるにはどのようにすれば良いのでしょうか

まずは、深呼吸をしてください。
深呼吸というと、はじめに息を吸い込む方がいらっしゃいますが、それでは深呼吸にはなりません。取り敢えず、体の中の空気をはき出すことから始めてください。そうしなければ、深い呼吸をすることはできません。呼吸という字を見てみると、呼が先にきます。先に吐いてから、吸うのが呼吸なのではないでしょうか。呼吸をするときの意識は、吐く方にだけ置けばよいと思います。吐ききった体は酸素を欲しますから、自然と空気を吸い込むことになるわけです。ですから、ゆっくりと空気を押しだし、勝手に吸い込むのを待っていればよいわけです。吸い込まれた空気は、肺の中で酸素が取り出されます。体が酸素を十分に受け取るのを待って、ゆっくりと吐き出します。
はじめは、吐いて吸って止める動作に三十秒ほど費やすような感じを掴むようにしてください。慣れてくれば、もう少し長くかけても構いません。ゆっくりと、それを繰り返すだけです。
ゆっくりと吐いて、ゆっくりと吸う。酸素が取り込まれるのを待って、ゆっくりと吐き出す。瞼を閉じて、それを感じることが、瞑想への導入となることでしょう。後は、自身の内面に起こっている変化や奥深くに眠っている記憶にとらわれることなく、奥底から現れてくる想念を浄化していくのです。

瞑想中には、様々な雑念が襲いかかってくるかもしれません。車の走り去る音であったり、鳥のさえずりであることもあるでしょう。時計の音や、誰かが歩く音に対しても、意識が向けられるかもしれません。それらを無視しようとすると、かえって意識が向かっていくことに繋がりかねません。その場合には、一度、注意をそちらに向けて、それらを認識することが大切なようです。様々な現象から、意識を背けるのではなく、ただ昇華させることが雑念から逃れる一番の方法であると思います。初めのうちは雑念に押しつぶされ、上手く内観することはできないかもしれませんが、続けているうちに、できるようになってくることでしょう。たとえ、一秒や二秒しか続かなくても、徐々に慣れてくるはずです。瞑想によって得られるものは、お金や名誉ではありませんが、心や体の静逸を得られることでしょう。

ここまでは、私が行っている瞑想への入り方です。


次に、もっと簡単な方法を書いてみたいと思います

これは、瞑想というよりも集中といった方がわかりやすいかもしれませんが、実際に行われている瞑想方のひとつです。簡単な例をあげておきます。それは、歩行瞑想です(今、私が名付けました)。これは、歩き方の練習にも繋がるかもしれませんので、やってみる価値はあるかもしれません。日常生活が送れる方であれば、誰にでもできます。足が不自由な方は、この方法を違うことに置き換えて、やってみることをお勧め致します。

まずは、しっかりと立ってください。しっかりといっても、力が入っていてはダメですよ。リラックスしていること、余計な力が抜けていることが、しっかりと立つということですからね。

しっかりと立てたなら、ひとつ深呼吸をしてか右足を降り出してください。右足ですよ。左ではありません(あくまでも、便宜上ですが)。その時に、心の中で「右足をあげる」「右足を降り出す」というように唱えながら行動するのです。「手を振る」などは、忙しくなるので省いた方が良いでしょう。その場合でも、車が走り去る音や犬の声など、気を散らすような音が聞こえてくることもあるでしょうが、上記と同じように、「犬の声」などと意識を向け、一度認識したうえで、心をゆったりと保ち、足の動きに戻ることが重要なようです。鉄道員の指さし確認のように、自身の行動を一つひとつ確認しながら、意識を自己の内側へと誘うことが重要です。

理解して頂けましたでしょうか?


瞑想とは、簡単なことです

無理せず、努力せず、頑張らない。そんな感じで、緩く考えてみてはいかがでしょう。何事も、力を抜いて行うことが一番だと思います。

それらができるようになってきたら、心と体に起こっている変化を観察してみてはいかがでしょう。

体感するだけで十分です。真理を知るとか、自己浄化などは考えずに、感じることが大切です


瞑想の目的は

個々が、それぞれ持つべきであって、全ての人々が、同じ目的を持つ必要性はありません。
慣れないうちは、簡単にはいかないことでしょう。様々な雑念が体中を走り回り、自分には向いていないんだと思ってしまう方も多いことだと思います。
でも、そこでやめてしまえば、それで終わりです。上手くできなくても、意識を集中させたり、内面を覗くことができなくても、まずは、呼吸を整えることからはじめましょう。そのことを自身に言い聞かせ、ゆったりとした時間を持つことが、何よりも大切なのではないでしょうか。
苦悩や煩悩を取り除くことは、並大抵のことではないはずです。少しでも、自身の内側を感じ取り、ストレスや過緊張を緩和することができたなら、幸いと考えております。

その先は、ご自身で・・・




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